「俺とちゃんと付き合ってくれ。」彼は急にそういった。ル・タンは雰囲気のいいカフェでいつもは人でいっぱいだ。他の客の会話や、コーヒーを入れる音すべて一瞬にして聞こえなくなった。「もちろん、遊びじゃない。本気で。父親にももう話してある。君とじゃないと今は付き合う気ないし、結婚も考えられない。もちろん、いますぐ結婚とかではなくてちゃんと知り合ってから…。本気だ。」
この人は何を言ってるんだろう。「結婚って…。でも、あなた私のことバカにしたじゃない。出会い系サイトなんか利用する女はバカだって。」「そうだけど、君と少し知り合ってバカな女なんかじゃないことはわかった。正直に言うけど、君との時間が俺にとっては居心地良かったんだよ。だから…。」出会ったときから強気の、常に人を見下すような彼が口ごもり、そして顔を真っ赤にしている。
「でも、お父様にはなんていうの。出会い系サイトで知り合ったって?」「そんなこと、どうでもいいから。俺はとにかく君のことをちゃんと知りたいだけ。出会いなんて俺には関係ない。お前のこと知りたいって思ったことのほうが俺にとっては重要なんだよ。」どうしよう…。彼の言葉を信じてみようか。私の心は揺れ動く。迷っている間に、注文したカフェラテがテーブルに届く。
私は心を落ち着かせるためそれを一口飲んだ。口にコーヒーとミルクの旨味が広がる。ほんとうにおいしい…。彼に視線を移す。カフェラテを飲む私をほほえましそうに見ている。きっと私は彼の告白に、これからYESと答えるのだろう。
会議が終わり、部長に呼び出される。「あの…。片桐さんの息子さんがどうしても君と話がしたいと言って引かんのだよ。いまあの会議室にいらっしゃるから、すまんが言ってくれないか。君はあの方とお付き合いでもしていたのかね。」「いいえ、まさか…。単なる知り合いというか、知り合いのうちにもならないというか。」
「とにかくね。行きたまえ。」なんなんだろう今さら。部長を使って呼び出すなんて卑怯すぎる。心臓の鼓動が速くなる。会議室のドアをノックし「失礼します。あの、なんでしょうか。お話って。今さらお話するようなことないと思うですけど。」と一気に話す。彼は相変わらずのしぐさで私を見る。やっぱりタイプなんだよなと悔しいけれど思ってしまう。
「びっくりしたよ。こんなところで君に会うなんて。あのあともメールしたんだよ。でもメールアドレス変えただろ。だからなんにもできなかった。今話し合う気はない。まだ、君も僕も仕事中だ。だから、今晩7時にル・タンで」そういって、彼は足早に去って行った。ル・タン…。あの日から一度も行っていない。私は行くことにした。これ以上会社を使って呼び出されるのも面倒だからだ。
「俺が言ったこと全部本当だっただろ。父も君の顔を知っていたんだ、写真で。何枚か君との写真を撮られていて、どこの誰だって問い詰められたんだけど、俺なんにも君のこと知らないから、なんにも答えられなかった。」「で、今さら何の用なんでしょうか。」
私が入れるお茶は美味しいと上司の間では少し評判になっていて、大切な取引先やお客様が来るときは、私がお茶を入れることになっている。「失礼致します。」会議室にいつもどおりお茶を運ぶ。基本的にお茶を運ぶときに来客の顔を見ない。目が合うと会話を中断させてしまうことがあるからだ。「粗茶になります」といいつつ、来客に差し出す。一人は年配の男性で、もう一人は…
「久しぶり」片桐祐だ。お茶を持つ手が震える。「知り合いか、祐?」年配の男性がそう言って私に視線を向ける。「おや、君は…」部長も状況が分からず私と片桐祐を交互に見る。ここは何事もなく、冷静に対処しなくては…。と私の理性が言った。「お久しぶりです。お元気にしていらっしゃいましたか。あっ、以前一度だけ喫茶店で偶然隣の席になりまして、私が落としたバッグを拾っていただいたんです。それだけなんです。」
「そうか。じゃあ君はもう下がりなさい。」「失礼致します。」お盆を持っている手が震える。そして背中に痛いほど片桐祐の視線を感じる。銀行の重役の息子って本当だったんだ。それに、彼の父親も私の顔を見たことがあるような感じだった。つまり、彼が言っていたことはすべて本当だったのだ。恐らく彼の父親は私の顔を写真か何かで見たのだろう。最悪だ。過去の自分を振り切ろうと一生懸命頑張っていたのに、こんなところで彼に会うなんて。
これは神様からの罰なのかもしれない。過去にしたことはそんなに簡単に消せないという…
春が来て、タカシと紗江が結婚する日が来た。「おめでとう、紗江。本当に嬉しいよ。」控室で紗江の姿を見て、心からそう言った。彼女は純白の花嫁と言うのにふさわしい。ドレスだけではなく、彼女はタカシ一筋、汚れたところなんて一つもない。そんな紗江を見ていると、自分がどれだけ汚れているかを思い知らされる。「ありがとう。私たちは菜月にも本当に心から幸せになってほしいって思ってるんだからね。それに、あんたの人生なんだからちゃんと自分を大事にして、本気で恋愛しなよ。」
紗江と、タカシの気持ちは嬉しかった。でも、今の自分が幸せな恋愛が出来るとは思えない。もう少し自分に自信が持てるようにならないと、誰かを心から好きになることもできないし、誰かに好きになってもらうことなんてきっとできないだろう。片桐祐の別れから私は仕事に力を入れることにした。恋愛はすこし休憩だ。もちろん会社ではちゃんと自分の仕事をこなしていたし、それなりに評価はされていたが、自分はしがないOLなんだから別に出世なんて興味はないと思っていた。
しかし、ちゃんと考えれば今の仕事でも自分を成長させることのできる分野があることに気付いた。会社の上司も私の頑張りぶりに目をとめてくれるようになって、最近では小さな仕事だが私に任せてくれたり、ミーティングなどで意見を求められるようにもなってきた。以前はめんどくさいと思っていた頼まれごとも今では嬉しい。「君。得意先の銀行の重役がこれから見えるから会議室にお茶を頼む。」部長がそういった。「はい。わかりました。」
「そうだよ、菜月。あんた文句いっぱい言ってたけど、最初にその人と出会ったときからなんだか気になってたじゃない。本気で好きになってるならなんで手離しちゃったの?」と紗江もタカシに同意して言う。「だって、出会い系サイトに登録するような女はバカだって決めつけてるような人だよ。私のこともSEX目的の病気を持ってるかもしれない女って一度言われたこともあるし。これ以上好きな人に傷つけられたくないもん。
お金もらって、本気で好きにならない約束なんかさせられても心はお金じゃ支配できないし、会えば会うほど好きになっちゃうかもしれないっていう気持ちのほうが強くなって…。もし、この気持ちをぶつけて拒絶されたら…ううん。拒絶されるってわかってるから、絶対好きなんて言えない。」「でもさぁ、今日は本気であんたに興味があるって言ったんじゃないの?」そう確かに言った。でも、彼の本心がわからない。あんなに私を最初からバカにして、見下していた男の言葉なんて…。
「あんなのただの遊び半分に言った言葉だよ。絶対そうに決まってる。」私はひとりごとのように答えた。「とりあえず、私は心を入れ替えるの。もう、出会い系サイトなんか使わないし、出会い系サイトで前に知り合った男とも連絡しない。もちろん片桐さんとも。だから二人とももう何も言わないでね。でも二人には本当に感謝してる。心配してくれてありがとう。」そう言う私を紗江もタカシも心配そうに見つめていた。
走って走って走った。今までの自分を振り切るように。雨が降っていることも気にならなかった。「よくやったじゃん。あんたならできるってずっと信じてたよ。菜月」雨の中いちもくさんに向かったのは紗江の家。そして、紗江がそう褒めてくれた。その日もタカシと一緒だったが、すべてをタカシにも打ち明けた。出会い系サイトで片桐祐と知り合ったことも…
「実はさぁ。俺なんとなく気づいてたんだよね。紗江に聞いたんだけど、こいつ口硬いから絶対言わなかったんだけど。この間の話も友人の紹介にしてはなんだかつじつまが合わないところがあったし、それに、何か月前かな。菜月ちゃんが俺の知らない男の車に乗って行くの見かけたことあったんだ。なんかそんときに見た感じでお互いが以前からの知り合いって感じでもなかったし、菜月ちゃんもなんかいつもと雰囲気違ったんだよね。だから、もしかしたら出会い系でもやってんのかなってふっと思ったんだ。ごめんね。言わなくて。」
「そっか見られてたんだね。ちゃんと気をつけてたはずなんだけど…。私って本当にバカだよね」と涙声になる。「それよりもさぁ、その片桐っていう男のことは本当にもういいの?俺は別に出会い系で知り合ったってこと悪いとは思ってないよ。もちろん、SEX目的のやつがほとんどってことも知ってるけど、もしそうじゃなくて本当に好きになっちゃったらそれはそれでもいいんじゃないかと思うけど。」と慌てて、泣きそうな私をタカシが慰めようとする。
「じゃあ、本気なら会ってくれる?」私はその言葉に驚いて、頭を上げた?「はっ?何言ってるんですか?」「だから、君に興味があるからもう少し会えないかって言ってるの。」「ふざけるのいい加減にしてもらえませんか。あなたが今は仕事が一番で女には興味がないって言ったんですよ。それに、私のことを出会い系サイトを利用する病気持ちのバカな女とも言ったことおぼえてないの。それにわたし、あなたが本当に銀行の重役の息子で、親から結婚勧められてるだのなんだのっていう話も半分信じてませんから。
あなただって出会い系サイトで知り合った男の一人で、どんな素性なのか知ったもんじゃないし。とにかく、私はもうやめるんです。こういうこと。今日はそれだけ言うために来ました。」「今まで言ったこと信じられないなら、付いてきて」と彼は立ちあがって私の手を引っ張った。「ちょっと、やめてってば。あなたが言ったことが本当かどうかもうどうでもいいの。あんたが金持ちでも、貧乏でもどうでもいい。興味があるって言ったってどうせ遊び半分で言ってるんでしょ。
自分のこと本気で大事にしてくれる人とちゃんと向き合いたいの。もう一度ちゃんとした恋愛したいの。だから、もうほっといてください。お願いだから。」私は駈け出した。これで今までの自分とはきっぱり決別するんだ。そう心に決めた。彼のことを少し好きになっていたことは認めざるを得ない。でも、自分が傷つかないためにこれが最善なんだ。
「すいません。もう片桐さんと会うことはできません。これすべてお返ししますから。」と私は彼が今まで私に払ってくれたお金を返した。「なんで急に?お金足りない?じゃあ、増やすから。」と彼は自分の財布を出した。わざとかもしれないが、財布の中にあるゴールドカードがちらっと見えた。「そうじゃないの。お金じゃなくて。片桐さんに協力しようと思ったけど、片桐さんに言われたように自分はバカな女って気づいたんです。
ずっとずっと自分こと本気で好きになってくれる人なんていないて思いながら過ごしてきました。男なんて全員SEXのことしか考えてないって。でも、私もそうだった。最初から心の触れ合いを求めてなかったし、自分が男で嫌な経験したからって復讐みたいな感じで出会い系サイトで知り合った男と関係もったりして。でも、もう嫌になったんです。そういうの。自分のこともっとちゃんと大事にしたいし、自分を思ってくれている人に胸を張って言えるような人生を送りたいんです。
片桐さんには申し訳ないけど、もうこれ以上こうやって会うことはできません。正直一時は私のこと好きにさせてやるなんて思ったりしたんですけど、片桐さんのこと知れば知るほど絶対好きにならないかどうかわからないし、約束だってできないから。だからごめんなさい。」私はテーブルに頭がつくほど頭を下げた。これ以上食い下がられたくなかったからだ。何も言わずに私を自由にして欲しい。それが私の願いだ。
両親はちゃんと私のことを心配して、愛してくれていたんだ。私はそんなことも知らずに高校を卒業するとすぐに一人暮らしを始めた。大学は実家から通うのには十分近い距離だったが、どうしても実家から出たくて駄々をこねた。一人暮らししたいと。それほど家から遠くないところに引っ越してから、家にもほとんど寄り付かなくなった。電話で母と時折話すだけで、父との接触はほとんど持たないようにしていた。
父からも連絡が来ることもなかったが、したくなかったというよりは出来なかったのだろう。でも、いま両親の気遣いを知り急に後悔の気持ちが湧きあがってきた。私は今まで何をしてきたんだろう。紗江が言うように私の人生ではあるけれど、親に自慢できるような人生を歩んでいるわけでもない。それに出会い系サイトに登録し初めて会った男とSEXしたり、よく知らない男と出会ってお金をもらったり。これじゃ売春婦と同じだ。
自分の家に帰るまで私は泣いた。私とすれ違う人は心配そうに、また好奇心で私をジロジロ見て行く。でもそんなこと気にならなかった。自分を今まで大切しなかったこと、自分の大切な人たちを大切にしなかった自分に腹が立ってしょうがなかった。今まで、出会い系サイトで憂さ晴らしのように男と会ってきたのが、その都度私の中に残って行ったのは虚無感と自己嫌悪だけだったのだ。だれも本気で私のことを愛してなんかくれるはずがない。だって、私が本気で人を好きになろうとしていないのだから。
母が言ったことを私は信じられなかった。父が母にケーキを買うなんて。今まで父が何かプレゼントする姿なんて見たことない。そして母は続けた。「あんたが子供の時によく食べてたいつものプリン覚えてる?スーパーのじゃなくて、ちゃんとしたケーキ屋さんの。」「うん。風邪引くといつもあれが食べられて嬉しかった。」
「あのプリンね。いつもお父さんが買って帰ってきてたのよ。あんたにはお母さんからだって言えっていつも言って。あんたが寝込んだ日は仕事から帰るときにプリンがいるかどうか電話で聞いてきてたし。あの人は愛情を示す方法を忘れてしまっただけで、本当は今だってお母さんのこともあんたのこともすごく心配してるし、お父さんもお母さんもあんたに幸せになってほしいって心から思ってるんだから。好きな人と出会って、ずっと一緒に生きていけたらって願ってるのよ。」
そう母は言って優しく微笑んだ。涙が出そうになった。「なんか飲み物取ってくる。」と私は台所に走った。父はお風呂に入っているようで、いなかった。冷蔵庫を開けてお茶を取ろうとするとケーキの箱を見つけた。本当に父は母もケーキを買っていたんだ。ケーキの箱を取り出して中を開けてみる。中には母のお気に入りのガトーショコラと父が唯一好きなモンブラン。
そして、あのプリンが入っていた。私がいつも風邪をひくと楽しみにしていたプリンが。私は父に愛されていたんだ。そんなことも知らずに、今まで感謝しないで大人になってしまった。